
国宝の東大寺南大門は源頼朝の援助により俊乗坊重源によって再建されたと伝えられています。重源は入宋で得た新しい建築様式の「大仏様」とも「天竺様」とも呼ばれる堅固な構造で建立しています。在来の建築構造は柱の各所に撓みが生じて危険であることを知った重源は、大仏殿や南大門の建築にあたり、南宋を源流とする「大仏様」の新しい建築様式を採用しました。この様式を「第二次渡来様式」と呼んでいます。
通し肘木(1) 通し肘木(2)
南大門は太い丸柱十八本に貫と呼ばれる長物と外部に延びた通し肘木を十文字にかっちりと組み合わせています。この南大門には八メートルを越える仁王像があります。奈良仏師の運慶と弟子の快慶が中心になってこの仁王像である「阿形」と「吽形」を作り上げたのです。
明治十二年(一八七九年)になってこの南大門が解体修理されたのです。その折りに梁の上で墨壷と墨指が発見されたのです。その当時から、この墨壷は大工の「忘れもののスミツボ」という異名を持って呼ばれてきました。現在、東京芸大で大切に保管されています。私の姪が芸大に在学中、このスミツボの見学を申し込んでくれたので、墨壷、墨指、箱書の三点を係員が見守る中、見学することが出来ました。スミツボは木製で材質は桑の木でした。シリは二つに割れ、舟型で先はとがり、底は少し広く、墨池は花梨型で小さく墨綿が少し残っていました。中央部には回転自在の鉄の輪が取り付けられていて、この鉄の輪に糸を取り付け、スミツボの重さを利用して建物の垂直を見るさげふりの役目を果たしていたのでしょう。糸車は篭状に作られていましたが、少し壊れかかっていました。墨壷の長さは七寸五分(約二二・八センチ)幅は中心部で二寸五分(約七・八センチ)高さは二寸(約六・六センチ)で思っていたよりも軽く見事に作られていました。
私は見学の途中で係官に申しました。

「この尻割れ型の墨壷はあまり使用していません」と言いますと、
「貴殿はなぜそれが分かりますか」
「私は五十年も大工仕事をやってきたので見ればその墨壷の状態が分かります」
「その理由を説明して下さい」と言うので
「舟型の先端に取り付けられている鉄製の金具の穴(すぐち)が少しも痛んでおりません、毎日大工が使っている墨壷のすぐちは墨糸が通るたび、糸ずれを起こしてひどくすぐちが痛むのです。そのため大工は陶器製のすぐちを取り付けております。真鍮製のすぐちもありますがこれもひどく痛みます。この尻割れ形の墨壷のすぐちが痛んでいないのは、あまり使用していないと言う理由です。」と申し上げました。
すぐちは「壷口」とも「糸口」とも呼ばれますが、小川三夫棟梁は私に「鉄口」とも呼びますと教えてくれました。鉄口とは鉄砲の銃口という意味があるのです。故村松貞治郎先生は、糸の出る側が墨壷の頭です。そして尻割れ型の名付け親は私です」と私に申されました。